明日のことは明日悩むことにしよう
音楽は、金持ちの道楽か、貧乏の夢なのか。
もし、あなたの収入が日本の一般平均をはるかに超えていて、休日や時間を自由に配分できるような仕事をしている、いわゆる「勝ち組」の人であれば、話は別だが・・・そうでないのなら、独り身ならまだ知らず、妻や子供のいる人が音楽活動に趣味をおいて、家庭と趣味のバランスをとることは、案外、相当難しいことである。
実は音楽活動をやっている人は、金持ちか貧乏で、あまりにもはっきりと別れている。
金持ちが、生活のゆとりを使い、Jazzバーなどに通い音楽を純粋に楽しみながら、自分も楽器の演奏やJazzのセッションなどに参加しながら、音楽活動を行っている部類と、本気で音楽のことが好きで好きで、音楽こそ生きがいとし、音楽で食って生きたがる純粋な若者たち、、、彼らは、だいたい貧乏だ。個人的な話で申し訳ないが、最近、仕事のことで選択の岐路に立たされてしまっている。
内容は、今の契約から正社員にならないか、というありがたい話しではあるが、実際の内容をみると今よりハードな残業を余儀なくされて、なおかつ、収入もかなりダウンする可能性がある。
正社員なので、ボーナスやら社会保障やら、定年まで生涯仕事が途切れることなく続けられそう、などなど、いろいろな条件を加味すると、マイナスということではなく、今にとんとんか、定年後の未来を見据えると利益かもしれない話しではあるが、すぐ目の前の話、金銭的にも時間的にも余裕がまったくなくなるので、この一生の趣味が続けられるかどうかが微妙になるほどの深刻な岐路に立たされているのだ。
そして、明日は採用担当者との面談がある。なんだか、憂鬱だ。
明日のことは明日悩むことにしよう。
諦めないで探せば、方法はきっとどこかにある。
When one door is closed, many more is open.
ひとつのドアが閉まっている時、もっとたくさんのドアが開いているんだよ。
by Bob Marley
今日は、沈んだ気持ちを明るくしたいので、彼のレゲエ曲でも聴きながら出勤 するとするか♪
ということで、今日は夜ブログ代わりに、朝ブログです。
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2018/7/20 追記
採用担当者との面談が終わりました。正社員としての起用はやはり年収面で折り合いが付かず、お互いお持ち帰り検討(事実的に流れ)になりましたが、無期雇用契約と今までほぼ同待遇で契約してくれるとの約束を頂きました。まあ、時間的にはやや損するが、金額を保証してもらうので、結果的にとりあえず、OK。こつこつ貯めて早く、『SATORI's Music BAR』をオープンしたいですな。今後10年以内に、計画的に(^^;
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Bob Marley :ボブ・マーリー(1945年~1981年)
ジャマイカのレゲエミュージシャン。「レゲエの神様」「魂の反逆者」「叫ぶ平和の使者」などと称される。
1945年、ジャマイカの北の海岸に位置するセント・アン教区、ナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉の父とジャマイカ人の母との間に生まれる。当時、61歳であった父と18歳の母は、ボブの誕生後に別れ、ボブは母親とナイン・マイルズで幼少期を過ごした。
10歳のときに父が死去。父からの経済的な援助がなくなり、一家は職を求めてキングストン郊外のスラムに移り住む。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というアダ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあった。ボブは、この地でバニー・ウェイラーと音楽活動を開始し、音楽に専念するため14歳で学校を中退する。
17歳でオーディションに合格し、ソロ・ミュージシャンとしてデビュー。18歳からトレンチタウンに在住し、少年時代からの親友らと「ウェイラーズ」というグループ名で活動を始める。また、後に「レゲエの父」と呼ばれたジョー・ヒッグスに音楽的薫陶とラスタファリ運動の教えを受ける。
ラスタファリ運動は、ジャマイカの労働者階級や農民を中心にして発生した宗教的思想運動であり、聖書を聖典とするも特定の教祖はいない。アフリカ回帰主義を奨励し、その指向は、生活様式全般、例えば、菜食主義やドレッドロックス、ガンジャを聖なるものとしている。
1974年、30歳のときに、エリック・クラプトンがカバーしたボブの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を獲得。ボブ・マーリーの名は一気に世界に広まる。同年、アルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。英国や米国のロック雑誌でも絶賛される。翌年にシングル発表した「ノー・ウーマン・ノー・クライ」も世界的大ヒットを記録。ボブは、第三世界を代表するスーパースターを呼ばれるようになる。
1976年、ジャマイカの政治的緊張が頂点に達する。ボブは、平和を取り戻すきっかけを作ろうと無料の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を計画。それにより二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃されて重傷を負う。負傷したまま5日の無料コンサートに出演し、翌朝バハマへ亡命した。
1978年にジャマイカに舞い戻り、「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演。コンサートを見に来ていた二大政党の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。音楽が世界を動かした瞬間であった。
1980年、脳腫瘍が発見される。様々な療法を試すも回復せず、1981年、母のいるマイアミの病院で36歳の生涯を閉じた。遺体は母国ジャマイカに戻され、国葬が行われた。
by Wikipedia
記事作成:2018.7.19
記事更新:2018.10.2
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